中国 「残留孤児」 を支えて30年 〜社団法人 神奈川中国帰国者福祉援護協会の歩み〜
――記念誌発刊に寄せて 横浜市会議員 大滝正雄
 中国残留孤児の支援事業30年を振り返った、記念誌の上梓を心よりお祝い申し上げます。
 私がこの問題に関心をもち、ライフワークとして取り組む決意に至ったのは新聞記者時代、特派員として北京に赴任していた先輩から「この問題は将来、国家的に大きな課題になる」と、聞いた時に始まります。
 その後、菅原幸助理事長を知ることとなり裁判闘争の資料を集めるため、菅原幸助理事長と中国の東北三省をまわりました。幾多の国難を経ながら、残留孤児に対する新支援策が生まれました。しかし、課題がすべて克服されたとは言えません。菅原理事長のリーダーシップのもと、人権の回復を求め真の政治解決まで団結して歩まれることを願ってやみません。

 *同協会理事長である菅原幸助氏が著した本書の、第七部には「協会を支えた人々」の項があり、15人の紹介と数人の名前があげられています。その中に記されている、私に関する記述は以下のとおりです。
 大滝正雄横浜市議  新聞記者時代、北京で中国残留孤児の存在を知り、個人的に孤児帰国者の支援を始めた。孤児らの裁判闘争が始まると、中国の公安庁(警察)との人脈を生かし、中国「残留孤児」国家賠償訴訟訪中団(菅原幸助団長)に秘書長として参加、協力した。2009(平成21)年4月からは、本協会の行政相談所(困りごと相談所)の相談員として孤児らの相談に応じている。
 (* なお巻頭には30年の歴史を写真で紹介したページがあり、その中に協会での「困りごと相談」の場面を撮った写真も掲載されています。 また『発刊に寄せて』の文中に、「特派員として北京に赴任していた〜」とあるのは、「特派員として北京に赴任していた先輩から〜」の誤りです。編集の段階でこのように変わっていたので、この欄で訂正させていただきます)
| ootaki-masao | 論文・投稿記事等 | 10:58 | - | - |
堀江忠男写真展によせて――
 安政6(1859)年の『横浜開港』により、西洋文化の取入れ口となった横浜には、「もののはじめ」が次々と起こりました。中でも特筆される技術導入に、明治20年の『近代水道の創設』があります。海を埋め立てて作った横浜の町は、開港当時は、ひしゃく一杯の水が、とても高価で貴重なものだったのです。いま、私達が飲んでいる水は、英国人技師 H・S・パーマーの指導で建設された水道が元になっていて、昨年は「近代水道創設120周年」を迎えました。
 以来、神奈川県と横浜市には、たくさんの水道施設が作られ、宮が瀬ダムもその歴史に刻まれました。堀江忠男さんは、計画段階から宮が瀬地区に籠り、水没する運命を背負った人々の、生活と風景を記録に残した証人です。日常、私たちが口にしている水。 その一滴の水に、安心の水を導いた人々の苦闘と、都市の持続ため、生地を離れることに協力した村人等の、数え切れない「想い」が秘められています。そのことを、堀江さんは知悉していました。だからこそ、未来の子供たちに、その「想い」を伝えたかったのだと思います。
 都市が紡いできた史料を、遺していく動きがいま、強まっていることは嬉しいことです。堀江さんの記録も、横浜市都市発展記念館に保存されることが決まりました。この機会に、堀江さんの、水と村と人への「想い」を、大勢の市民の皆さんに観て、感じていただきたいと願っています。
●堀江忠男写真展 『宮が瀬讃歌』――神奈川とハマの水源を辿る―― 展覧会カタログに掲載
| ootaki-masao | 論文・投稿記事等 | 13:33 | - | - |
「目に見えない資産」を大事にする経営
●ヨコハマ機工および創業者の印象は――
<YKG広場(横浜機工グループ機関紙) 第17号> 
 ヨコハマ機工創立40周年記念『感謝の集い』開催記念号に寄せて

「感謝の集い」にお招きいただき、社員の皆さまの家族的でいきとどいたホスピタリティに、いたく感動したしました。同時に一人ひとりの表情から窺うことができた緊張感にも、私は心地よさと安心をも感じさせてもらいました。「ヨコハマ機工は、こうした人々が力を合わせていれば大丈夫」と。
 半ば冗談のような(いつものことですが)ユニークな挨拶をしていた創業者・吉岡璋最高顧問を壇上に仰ぎ見ながら、私は吉岡さんが『YKG広場 16号』で書いておられた『目に見えない資産を活かす』を思い起こしていました。たしか「”人をいかに活かすか”を、トップばかりではなく、社員一人ひとりがそれぞれの立場で考えることが重要―。これこそがヨコハマ機工の競争力の源泉であり、発展の原動力になる」というものでした。創業者であり同社を40年間にわたって経営してきた吉岡さんが、自ら貫いた信念そのものを述べた言葉だったように感じられます。
 何ごとも想像を超えた厳しい時代。”人を大事にする”ことをきちんと実践できる企業こそが、伸び続けていける資格をもった企業といえるのでしょう。社業のご繁栄と社会へのますますの貢献を、私は強く信じています。 
| ootaki-masao | 論文・投稿記事等 | 12:11 | comments(0) | - |
マチュピチュ遺跡とアマゾナス劇場での感慨
<エコー会機関誌『絵好』第60号>

<絵好ずいひつ>  先号に続き今回は南米ペルーとブラジル訪問について書きます。ご存知の方も多いと思いますが、国連の条約に基づく本部機関がわが国には唯一、横浜市に設置されています。「国際熱帯木材機関(ITTO)」がそれで、創設は1983年。
 横浜市は86年に誘致しました。同機関は、熱帯林資源の保護と、持続可能な管理・活用・木材貿易の促進を図る、政府間組織です。私たちの視察・会議等をアテンドしてくれたのは、このITTO本部です。熱帯林と多様な生物種保護に関するITTOプロジェクトは、主として南米と東南アジアに集中しています。そうしたことから、その最も特徴的な事業が行われているペルーとブラジルで、私たちはプレゼンテーションに参加したり、政府関係者、大学等学術機関の訪問・会議を重ねたのでした。
       *
 ◆空中都市での自然の演出
 リマ市にあるペルー農業省、JICA(国際協力機構)ペルー事務所等での質疑を終え、マチュピチュ国立公園に向かったのは、ペルー滞在二日目。マチュピチュは、遺跡(文化)と自然の両方が指定された、数少ない複合世界遺産です。
 クスコのサンペドロ駅からマチュピチュ村のアグアス・カリエンテス駅までは列車で約4時間。そこからマチュピチュ遺跡までは、標高差が400超。つづら折りの山道をバスでゆっくりのぼります。早朝の出発時から、あいにく篠つく雨でした。終着駅で列車を降りたときは、土砂降りの雨。ポンチョ風のマントを買った私たちは、誰も口にこそしませんでしたが、雨と霧とで「見られない遺跡」を覚悟していました。
 マチュピチュは15世紀半ばから16世紀前半に造られたといわれていますが、最も古い部分は、2000年前にも遡るという調査があって、最近は少なくともインカ以前から存在していた、との説がとられているようです。遺跡の標高は約2400m。総面積5訴進叩インカ帝国の諸都市がスペイン侵略により破壊され尽くしたのに、マチュピチュがほぼ無傷で残っているのは、そこが空からしか存在が確認できない、まさに「空中都市」であったから、といわれています。
 昼前に、急峻な山道を登っていた私たちは、マチュピチュの全容が見下ろせる場所へ、這うようにたどり着きました。その視界が開けたと同時に、霧に包まれていた遺跡たちが、ゆっくりとその表情を表し始めたのです。私たちを待っていてくれたかのような、自然の見事な演出に、鳥肌がたつような感動を覚えました。この遺跡を発見したのは米国人ハイラム・ビンガム。1911年といいますから、インカ滅亡後400年のことです。彼ら一行が体験した感動は、どのようなものだったのか想像もつきません。もっとも、一帯はジャングルと廃墟。全景を見たのはずっと後からのことだったと思われますが。
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 ◆人々の幸せと平和を祈る山中の舞台 
 巨石を含めて、この遺跡群に使われた石材は、全てこの山中から切り出されたもので、遺跡の背後には石切り場もそのまま残っています。太陽月・星々などの、天体観測が行なわれたとされる施設、共鳴の原理を祭祀に活かした部屋、学校・神殿・農業研究所など、生々しい息づかいが今も感じられる建造物と、その石組み技術の確かさに、圧倒され驚嘆しない人はいないでしょう。
 インカ族は自然崇拝の民族だったといわれています。マチュピチュは、自然に畏敬を払った人々の祈りの街。私はそう確信しました。自然と人間が一体となり人々の幸せと平和を願い、自らの生活もそう徹しようとした人たちの、祈りの街だったのだと。
 ところで、マチュピチュには、発掘品等を展示している施設はどこにもありません。先述のビンガムが米国に持ち帰ったからです。いま、エール大学にそれはあります。研究で多くのことがわかっていますが、中でも私が感動を覚えたのは、発掘品の中に武器が存在していなかったという事を聞いた時です。人骨からも戦いの形跡や、重労働を強いられた跡さえないとのこと。街が廃墟になる直前まで、ここの人々は豊かな自然の中で、平和に暮らしていた! 研究がさらに進めば、現代の、いや未来の人間にとって、この遺跡群は、とてつもない大きな教訓をもたらす可能性がある。私は今、いっそう興味をそそられています。
 発掘品の展示に関して、蛇足ですがもう少し述べてみたいと思います。遺跡の発見・発掘後に、その現地に展示施設が作られる例は、少ないように思われます。まして現地の人々の手によって施設建設や管理・運営まで行なわれているとなると、それこそ稀有。でも、あるのです。しかも日本人学者がその道を開いた例として。アンデス文明の遺跡クントゥル・ワシがそれです。
 遺跡を発見し、博物館建設にも尽力した学者は、東京大学教授の大貫良夫先生。先生は発掘品などを日本において大規模な巡回展で紹介し、会場では寄付も募りました。建設財源をそこから生み出したのです。それ以前に、そもそも国の宝である発掘品を、外国に持ち出すこと自体に、相当の抵抗があったはずですが、先生の熱意と、信頼関係がそれを克服したといいます。建設はクントゥル・ワシ村あげて取り組まれ、館長には大貫氏自身が就任。村は一挙に観光地としても活気づいて、大勢の人々が訪れるようになりました。この例は、国連から「クントゥル・ワシ・ケース」として、高く評価されています。
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 ITTOのプレゼンテーションは、リマでもブラジリアにおいても、とても有益なものでした。地球的規模の環境問題に挑み、それを克服することは、そのまま平和創出や青少年の教育問題など、地球全体を覆う今日的課題の解決と、軌を一にするものであることを、心から納得できたからです。
 例えば「エクアドル・ペルー間のコンドル山脈に於けるプロジェクト」は、両国の和平成立後に、ITTOが核となり環境保護・生態保全活動をしながら、平和維持活動に直結している例ですし、「アマゾンの先住民コミュニティによる森林再生」は、先住民青少年に対する森林文化の啓発・教育が、持続可能な森林再生と経営の成功を導いた事例です。私たちにとって光栄であり、大変嬉しかったこともありました。ブラジル大学で「アマゾン植物相非材木五百種のインターネット・サイト発表式典」が開催されましたが、それは、わざわざ私たちの訪伯に合わせて企画し、副学長出席の元で、その意義を留めてくださったことでした。
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 ◆三大劇場と謳われたその後の運命
 アマゾン経済の中心地・マナウス。ゴム景気により「世界中の金が集まった」といわれるほど、栄えた街です。東南アジアのゴム栽培が世界一の座を獲得するまでの約50年間でした。その繁栄振りを街中の建築群や文化・芸術施設に見ることが出来ます。その代表が「アマゾナス劇場」です。世界三大オペラ・ハウスは、パリのスカラ座、ミラノのスカラ座、そしてマナウスのアマゾナス劇場。それを、私はここマナウスで初めて知りました。巨万の富を築いた実業家たちが、パリに劣らないものをと、なんと劇場をパリで建築し、その建物を丁寧に解体してマナウスに運び、再び組立て直して完成させたという、超豪華なオペラ劇場です。
 杮落としは1896年。客席は650席で、オーケストラピットの昇降は、水圧方式でした。平均賃金が30クルゼーロの時代に、フランク・シナトラ公演のチケットは1000クルゼーロだったとか、ともかくエピソードもふんだん。その絢爛豪華な劇場も、経済の大波には勝てず、酷いほどの衰退にさらされました。「ほんの50年ほど前はゴムタイヤの倉庫だったよ」。案内してくれたのは、アマゾナス連邦総合大学の錦広司氏。氏は日本人移民の協力を得て、大学生らと修復・再活用への運動を起こした、その人でした。大勢の人達の復興の願いがかない、現在はマナウス市の管理の下、様々なイベントや演奏会などに使われています。年末には、日本人会でブラジル版「紅白歌合戦」も開かれているとのこと。
 日本の真裏にある他国の歴史的建造物が、たくさんの日本人が関わることによって保存・再活用されていることに、私は胸を熱くしたのでした。(大滝市議自身が撮影した、マチュピチュ遺跡とアマゾナス劇場の写真付き)
| ootakimasao | 論文・投稿記事等 | 16:19 | comments(0) | - |
旧日本軍の中国遺棄化学兵器問題
●地方議員リポート 第八回
<理論誌「公明」8月号>

◆毒ガス被害の悲惨な現状
 さる5月23日、衆院第一議員会館の会議室は、重苦しい沈痛な雰囲気に包まれた。遺棄化学兵器による「チチハル事件」と「敦化事件」の被害者らが公明党に実情を訴え、被害補償等について政府との仲介と現地調査を求めていた。公明党遺棄化学兵器処理問題対策プロジェクト・チームが応対し、斉藤鉄夫座長(衆院議員)は、激励とともに党として一層の取組み強化を約束。26日には、長勢甚遠内閣官房副長官らに直接申し入れを行った。馮佳縁さん(13)は、毒ガスによる被毒の状況を説明した後、「怖くて毎日が不安です。一日も早く無くして」と怯えた表情で訴えた。同チームの副座長として同席していた私は、馮さんらの訴えを聞きながら、衝撃的に報じられた「チチハル事故」を改めて思い起こしていた。
 チチハル事件は、2003年8月日に黒龍江省チチハル市で起きた。団地の駐車場建設現場から、液体の入った五本のドラム缶が発掘、パワーショベルで押しつぶされた缶からは液体が噴き出し周辺の土を黒く染めた。強い刺激臭も一面に立ち込めたが、危険なものとは思わなかった作業員は、そのまま仕事を続行。その結果、ドラム缶本体と中の液体、汚染された土などを媒介に、複数の場所において、次々と四十三人が重軽傷を負い、一人が死亡に至った事故だ。液体は、日本側の調査で旧日本軍が遺棄した毒ガスの一部と判明。もれ出たのは、イペリットとルイサイトの混合液であった。
 来日した馮さんは、中学校の校庭を整地するために、事故現場から運ばれていた汚染土の上で遊び、友だちと共に被毒した少女だ。彼女のほか、ドラム缶の解体作業や無害化処理を行った作業員も被毒。汚染土は学校や道路、複数の一般住宅にも運ばれたため、想像を超える被害の拡大を招くことになった。翌年七月の「敦化事件」も、小川で遊んでいた周君(当時13)と劉君(同9)が、拾った砲弾をいじっている間に漏れ出た毒ガスが体に付着、被毒した事件である。被害者はいずれも、痛みや激しい咳き込み、肺機能・免疫力の低下、体力・集中力の衰えなど、毒ガス中毒特有の障害に日夜苦しんでいる。子どもや一般市民が、突如として自らの生活や夢を奪われ、症状の進行に怯える日々を余儀なくされている事実は、痛ましい限りだ。
 こうした事故は、なぜ相次いで起こるのだろうか。旧日本軍は終戦時の混乱の中、保有していた化学兵器を、中国各地の河川や港湾、農地や山中に遺棄したり放置して撤退した。それらの場所は秘匿され続け資料もない。また化学兵器の危険性に関する情報は、中国の一般市民は知らされていないし、知るすべもない。経済発展を続ける中国はいま、都市部だけではなく農村地域でも建設ラッシュだ。作業員などが突然毒ガス被害を受ける状況は、このままでは防ぐことも出来ず、対策は後追いにならざるを得ない。
 ただ、中国で起きたこうした事故に、わが国政府は手をこまねいてきたわけではない。発見の後、日本政府の責任で発掘・回収を行った事業は、平成12年の黒龍江省北安市で起きた件を初回に、昨年11月の吉林省敦化市で計十回を数える。それらの場所は、江蘇省南京市、黒龍江省孫呉県・同チチハル市・同寧安市・同伊春市、河北省石家荘市、河南省信陽市、広東省広州市など実に広域にわたっている。戦後に遺棄・放置された毒ガスで被害を受けた人は、中国政府の調査では約二千人にも上ると報告されている。
 旧日本軍が製造し、中国に持ち込み配備した毒ガス兵器は、砲弾で約70万発(中国政府は200万発と発表)と推計されている。中国が国連の場で、この問題を初めて取り上げたのは91年。95年にわが国は化学兵器禁止条約を批准し、翌年には中国も批准した。これを受け、2007年までの無害化・廃棄の義務をわが国が負うことになった。「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」が、両国政府間で締結されたのは九九年七月。同じ年、毒ガス廃棄事業の実施組織として、総理府(省庁再編で内閣府と改称)に「遺棄化学兵器処理担当室」が設置された。毒ガス処理が、わが国の事業としてスタートするに至った経過だ。
 しかし前述のように、これまでは小規模発掘と回収が実施されてきたほかは、いまだに本格的な処理・廃棄事業には、着手できていないのも事実だ。半世紀以上もたつ古い砲弾などは、変形・腐食等に加え化学剤の漏洩や爆発の危険性が常に伴う。長期間土中に埋設されていた化学兵器を、これほど大量に処理した経験と実績を有する国は、かつてどこにもなかった。そうした実情が、日中両国の協議をより慎重にさせているともいえる。政府予算には06年度において、約177億円が処理事業費として計上(16年度までの総計は約315億円が執行済)された。推定で約40万発の砲弾類が埋められている吉林省のハルバ嶺において、わが国政府は今年度中にも発掘・回収施設と、無害化処理施設の建設に向け、造成工事を開始したいとしている。

◆政党として初めて現地視察 
 旧日本軍による化学兵器問題には、基本的に二つの視点がある。一つは日本国内における問題。もう一つは中国における課題解決だ。
 公明党は、いずれの視点からも極めて重要な政治課題と認識し、これまで真剣かつ積極的な取り組みを行ってきた。
 国会においては、73年の参院予算委において塩出啓典議員(当時)が、戦後に毒ガス兵器を海洋投棄した事実確認と被害者補償を初めて取り上げた。最近でも、93年の衆院予算委で大野由利子議員(当時)が、90年に中国政府がわが国に正式に毒ガス処理を要請していた事実と、遺棄化学兵器問題の存在を初めて国会の場で認めさせるなど、今日の処理事業への道筋をつける、重要な論戦を展開した。
 また公明党は99年5月に、日本の政党としては初めて、大量の毒ガス砲弾が埋まっている吉林省敦化市郊外のハルバ嶺地区を視察。中国政府の関係者らとも意見交換をした。衆院議員の斉藤鉄夫、赤羽一嘉、大野由利子(当時)の各氏と共に、私も地方議員を代表して参加した。ハルバ嶺の毒ガス砲弾とドラム缶は中国東北部に遺棄・放置されていたもので、中国側が危険回避のため集積し埋めたものである。帰国後、調査団は直ちに高村外務大臣や小渕首相(いずれも当時)らを訪ね、中国国内の化学兵器を早期に処理するよう、強く申し入れた。
 私は「前後問題」、とりわけ中国残留孤児問題や遺棄化学兵器問題に、特別の関心を抱き活動してきた。毒ガス問題への直接の関わりは96年に私の足元でおとずれた。神奈川県寒川町にあった旧日本海軍の化学兵器工場で、徴用工として働いていた元工員・奥山辰雄氏との出会いである。設立したばかりの「旧相模海軍工廠毒ガス障害者の会」(山口千三代表)に所属していた奥山氏は、同工廠で毒ガス製造に従事した工員には、戦後60年近く経つのに未だに何の補償もない、と私に訴えた。「被害者は病弱で動けないうえ高齢者ばかり。把握できない元徴用工らを探し出し、皆で国の補償を勝ち取りたい。力を貸してほしい」。奥山さんの真剣な訴えに、激しく心を揺り動かされた。私は、党神奈川県本部内に「毒ガス実態調査委員会」を直ちに設置。障害者の会とタイアップして活動を開始した。一方、大久野島がある党広島県本部は「毒ガス対策プロジェクトチーム」を早くに立ち上げ、現地視察や聞き取り調査等の活動を行っていた。国内の毒ガス対策に迅速に反応した県本部の動きは、「旧日本軍毒ガス弾処理問題に関する協議会」を党本部に設置させるまでに発展。関係する11の道府県本部が協働・連携しながら、視察や調査、サミットの開催、中国の歴史学者を招いてのシンポジゥム等に、全力で取り組んだのである。「改革は地域から」とのスローガンのもと、地方議員中心の党「公明」が船出した、直後のことであった。
 98年と99年には、党神奈川県本部と「毒ガス障害者の会」、および秋田・福島両県本部が共同で、パネルディスカッションを開いた。旧相模海軍工廠の徴用工らは東北地方出身者が多いと知ったからだ。報道各社にも協力を仰ぎ、同工廠で勤務していた人々に名乗り出てほしいと訴えた結果、両県での会合を機に、長期入院を含め六人の所在を確認、その後、すでに死亡していた人を含め11人が判明した。こうした活動を経て、寒川の同工廠での被害者が、国から「認定」を受け、初めて救済対象になったのは九九年九月だった。神奈川県在住者23人が申請し19人が認定、その後も認定者が徐々に増えている。だが被害者とその家族の苦労や、亡くなった人の無念を考えると、その道のりは余りにも長かったといわざるを得ない。

◆早期の完全処理と医療ケアを
 毒ガスの恐怖が、とつぜん市井の人々にも襲いかかる例は、わが国にも多数実在している。井戸水から高濃度の砒素が検出された茨城県神栖町の事件や、工事現場から毒ガス瓶が出た寒川町事故などは、わずか3年前の出来事である。環境省は相次いだこれらの事件を機に、72年の調査以来、31年ぶりに全国規模の再調査を行った。その結果、『毒ガス情報が確実な地域』を、神栖町など四地域で認定。さらに『場所の特定ができない』『情報が不確実』などの地域が、36か所もあることが浮き彫りになった。毒ガス残存の可能性が高いが、正確な実態把握はなお困難だということである。この調査だけで、住民の不安は消えない。関係自治体と国による対策・調査を継続していくべきだ。また、わが党も引き続いてこの問題には挑戦していきたいと決意している。
 平和な時代に突如として襲い来る「毒ガス兵器」の恐怖は、その被害者ならずとも、容易に想像がつく。かつて私は、黒龍江省社会科学院に歩平副院長(当時、現在は中央社会科学院・近代史研究所所長)を訪ね、毒ガス傷害の患部写真や現場映像を拝見したことがある。しばらく言葉も出ないほど衝撃をうけ、慄然とする感覚に襲われた。
 先に述べたチチハル事故等について、日本政府は中国政府を通じて一時金を支払った。しかし、心身ともに深く傷つけられている被害者に、医療支援・生活支援など何らかの人道的支援が求められている。医療ケアは、この分野においてわが国には蓄積された高い技術がある。緊急時に備える意味でも、日中の医療専門家が共同して、医療と看護の体制を早急に確立すべきだろう。また、わが国で毒ガス製造に従事し健康被害のある人は2480余名だが、これらの人々には健康診断や医療費・各種手当て等が支給されている。この措置は、被爆者援護法に準用した援護手当てとして施されてきた。同法については海外に居住する被爆者に対しても、援護の手を差し伸べる動きがある。中国の毒ガス被害者も、その論理の延長で救援できないものか。この問題については、さる5月30日、衆院決算行政監視委員会で斉藤鉄夫議員が政府に質している。政治的・人道的立場から、支援策の早期構築が望まれるところだ。
 不幸な事件・被害を二度と起こさないためにも、根本的解決策は一日も早く遺棄化学兵器の処理を完結させることにある。高度な技術力を必要とし、巨額な費用がかかるだけに、わが国が誠実かつ適切に事業を遂行することは、中国のみならずアジアや国際社会に対しても、信頼回復と関係改善に、大きく貢献するものと確信している。

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MoMAの視察と、ニューヨーク・アートにふれる
<エコー会会誌『絵好』 第59号>
絵好ずいひつ

 昨年十一月、機会を得てニューヨークとペルーのリマ、ブラジルのマナウス等を訪問しました。主として文化・芸術と、環境に関する会議に出席する旅でしたが、多くの人々と語らい、たくさんのアートシーンに出会いまた。今回と次回の二回にわたり、その報告をしたいと思います。まず、ニューヨークのアート状況からです。
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◆リニューアルしたMoMA 
 世界初の近代美術館としてスタート(一九二九年)し、今なお各国の近・現代美術館に多大な影響力を与え続けているニューヨーク近代美術館(MoMA)。この増改築プロジェクトに建築家・谷口吉生氏が関わり、大きな話題を呼びました。その完成は二〇〇四年一一月。2年半の歳月と約4億2千5百万ドルが投じられました。
 私がどんな犠牲を払っても訪れたいと、ニューヨーク入りして真っ先に向かったのがMoMAです。同館のカレン・デビットソン副部長は、時間をかけ丁寧に、経過や特徴、その後の市民の評価などを説明してくれました。同館のリニューアルは国際的なデザインコンテストから始まっています。興味深かったのは、それがビデオやデジタル機器を使ったイメージ重視のデザインではなく、11in×17inの箱でデザインを競う方式で、設計者の想像力を試す選考法だったことです。「谷口氏の設計はMoMA自身とその歴史、ニューヨーク市街建築の持つ特徴が理解しつくされていた」と、審査委員から絶
賛を浴びたといいます。
 もう一つ興味深かった話は、このプロジェクトが進行している最中にあの「9.11同時多発テロ」が起こったことです。経済が大打撃を受け、将来が不透明な状態に陥った中で、「建築続行」の励ましの声を出したのは、ジュリアーニ・ニューヨーク市長や多くの政治家だった、という事実に、私は少なからず感動を覚えました。建設にかかる総費用の10%分の資金さえ、ニューヨーク市が拠出。純粋な民間施設に市が資金提供をしたのは初めてのことだと聞きました。美術館改築は、経済再生の起爆的役割を果たす事業になると、関係者たちは確信と希望を持って取り組んだのです。
 ニューヨーク・タイムズ紙によると、20ドルという高めの入場料設定にもかかわらず、リニューアル・オープン後の半年で百四十万人が来館。従前は一日五百人もいなかったレストランは二千人を超す利用客でごった返し、来館者は改築前の二倍以上の時間を美術館内で過ごしている、というデータもあげています。谷口氏のコンセプトは、美術館の建物自体を一つの作品としてデザイン。ここを訪れた人々は、美術作品・谷口デザイン・NYの歴史ある街並みを、一か所で楽しめるようになったのです。
 前述のカレン女史は「美術館関係者のみならず、NY市や多くの芸術家も、この改築プロジェクトがもたらした結果に、十分満足していることをお伝えしたい」と、満面の笑みで答えてくれました。
 マチスの大作「ダンス」は、最上階の展示室から階下へ降りる階段ホールの壁面に架けられていました。あえて、そこを選んで掲示したとのこと。ピカソの「アヴィニョンの娘たち」、ルソーの「星月夜」など、名作中の名作を、私はじっくりと何回も見直すことのできる至福の時間を過ごしました。もちろん、ウォーホルやリキテンシュタインら、アメリカ現代美術の先駆者たちの充実した作品群にも、目を見張らされたことはいうまでもありません。
       *
 ◆SOHOとチェルシー
 よく聞かされるSOHO。ハウストン・ストリートの南側という、地域名を指します。空き家ばかりとなった倉庫街に、二十世紀半ば自然発生的に芸術家が住み着き、アトリエが集中した場所です。アメリカン・アートはここが発信源の一つとなりました。現在は、どちらかというとブティックやレストランの街。ここにはNY市を代表する歴史的建造物が点在し「キャスト・アイアン様式」の特徴ある建物が、たくさん保存されています。
 一方のチェルシー地区。ハドソン川沿いの倉庫群には、ユニークなギャラリーが続々と。アメリカ発の最新アート震源地は、今やチェルシーに移った感があるほどです。四百を超えるといわれるギャラリーのほか小劇場など、パフォーミング・アーツもここに集中しています。ここで面白いものを見つけました。
 一九八〇年代に廃止になった貨物の高架鉄道跡です。この再利用プロジェクト(ハイライン計画)が進行中でした。跡地保存と再生を呼びかけたのは、「フレンド・オブ・ザ・ハイライン」。周辺住民や経営者、市民組織で構成されたNPO組織です。
 何と、この再生デザインを、NPOが国際的なアイデアコンペの対象にしたというのです。これには、世界36カ国から720チームの参加が得られ、計画推進にはキャピタル・ファンドも作られました。しかも、昨年度の米国政府予算にさえ、ハイライン計画プロジェクトのために、百万ドルが計上されていたと聞いて、「アメリカ的だなぁ」と、感心させられたものでした。
 チェルシーに「ニュー・ミュージアム」という今注目されている美術館があります。一切美術作品を購入しない代わりに、購入代金を芸術家支援と作品紹介の展覧会費用に充てる活動を続けています。美術館の持つ知識・験・ノウハウを積極的に社会還元し、運営費用は徹底して寄付に仰ぐという方針を、七七年の設立以来続けて評価を得てきました。この美術館は、現在SOHOに新美術館の建設を進めていますが、ここでも日本人建築家が活躍していることを知って、誇らしく思いました。アーキテクトは、話題の「金沢二十一世紀美術館」を創った妹島和世・西沢立衛の両氏です。「SOHOの新たな目玉」と、今から期待を集めていました。二〇〇七年に完成するとのことですが、チェルシーの仮設美術館にあったパースを見て、是非とも新館を訪れたい、との思いに駆られました。
      *   
 ◆横浜が学ぶこと
 「芸術・文化を生業にしている人々にとって、横浜はとても活動しやすいし、市の支援策にも興味を持っています」。ジャパン・ソサェティ(日米協会)の舞台公演部長である塩谷陽子さん。国連本部が見える協会事務所で、アメリカから見た日本の文化・芸術活動や、最新のアメリカン・アート情報等を伺ったときのことです。
 塩谷さんは、芸術支援に関する調査研究を、日本の各種財団・企業・自治体を対象に行いながら、そのあり方を日本社会に問い続けている専門家。九七年から日米協会内で現職の仕事に就いて、アメリカの最先端アートをわが国に紹介するとともに、日本のアーティストやその作品をアメリカに送り込んでいます。氏が横浜を評価した一つの事業は、横浜市と市民団体が協働で取り組んでいる「BankART1929」。これは旧富士銀行や旧第一銀行等の歴史的建造物を使用して、多様な文化創造活動を行っている時限事業を指します。場所を提供した行政と、そこで活動する市民組織。創造都市
を目指した横浜の新たな試みで、日・米間を頻繁に行き来している塩谷さんにも、情報が届いていたのでしょう。
 ともあれ、文化・芸術活動においても、NY市では圧倒されるようなエネルギーを率直に感じます。チェルシーのギャラリーや小劇場は、ま
さに増殖する勢い。アーティストとその周辺の人材を育てたり、仕組みそのものを新たに生み出す活動に、NPOが力強く関わっていることや、ファンドのつくり方なども、自治体行政に関わっている者として学ばなればならない大事な点だと思います。
 ただ、塩谷さんの次の言葉も実に印象的でした。「NY市が率先して、アーティストの住みやすくなるような法律や条令を作ったなどという話を、私は聞いたことがありません。また、アートのために市が何か特別なことをしているわけでもないのです。アートは、何とかしたい人々が、何とかしてきた結果としてあるものだと、つくづく思います」。


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中国残留孤児政策の拡充を
手記:調査訪中団に参加して/大滝正雄(横浜市議)
<公明新聞 平成17.6.7>

 4月4日から12日まで、中国養父母謝恩の会が主催した「残留孤児問題調査訪中団」の一員として、北京と東北三省の省都であるハルビン、長春、瀋陽の各市を訪れた。団の構成は帰国孤児三人と弁護士らを含めた十一人。目的は、〕槁稱譴里見舞いと聴き取りを行うこと∋栂姥瓢対策を所掌した中国当局者との会談戦後問題を研究する歴史学者と意見交換――などである。
 日本政府による残留孤児の集団訪日調査が始まったのは、日中国交回復から9年後の1981年であった。99年には国の調査は終了し、永住帰国を果たした孤児は約2千5百人。数多い「戦後問題」の一つが解決したかに見えた。しかし孤児問題は今「自立」と「人権」という、新たな課題に直面している。
 やっとの思いで帰国した孤児たちだが、言葉の壁や自身の高齢化が障害となり就職難、低賃金労働、不十分な社会保障等で「自立」とは程遠い状態にある。厚生労働省の99年調査でも、生活保護受給者が孤児全体の65%超。就労率は29.2%でしかない。
 中国外交部(外務省)の朱桃英領事司副司長は「孤児問題の適切な解決は中国政府にとっても重要」と訪問団に強調した上で、帰国した孤児に「養父母のために親孝行するよう伝えて」とも述べた。だが生保受給者の場合、海外渡航は難しく、親孝行したくても出来ない事情がある。
 中国養父母の高齢化も一段と進む。生存は200人ほどと聞いた。「自分が生きることさえ困難な時代に、日本人の子どもを育てた養母は、孤児が日本に帰ってから、孤老のままだ」。孤児問題を追い続けている遼寧省社会科学院の張志坤氏は具体例をあげた。「出来れば日本と中国の間を鳥のように自由に行き来したい‥」。一人の養母の言葉を、氏は『常回家看々』という詩句に心情を重ね紹介した。かけがえのない家族にいつも帰り集う、との意味だ。
 「親孝行したい」「人間らしく生きるための保障を」と、訴える孤児たちは、02年12月、国家賠償請求訴訟を東京地裁へ提訴。国は孤児の早期帰国と自立支援の義務を怠った、という理由である。すでに全国十四地域において1948人(5月22日現在)の孤児が原告となっている。帰国者の8割。この数が、孤児たちの生活の厳しさと、将来不安を十分に物語っているといえよう。
 公明党は、03年10月に「中国残留孤児に対して救済措置を求める議員連盟」(座長・高野博師参議院議員)を設立。帰国孤児の多い東京と神奈川など首都圏で、11万3千余人の署名も得た。昨年12月14日には、孤児代表と浜四津、松両参議院議員らが尾辻秀久厚労相と会い、署名簿の提出と孤児政策拡充を強く申し入れている。
 戦後の長期間、余儀なく半生を中国で生きてきた残留孤児たちだ。日本人である彼らが帰国しても、ふさわしい支援が届かず、将来不安に加え、人権さえ侵されかねない「冷たい祖国」であってはならないと思う。集団訪日調査が盛んな頃、彼らは真の「日中友好の架け橋」と期待され、歓迎を受けた。「孤児問題の本質に日本人がもっと関心を寄せてほしい」と、前述の張氏は強調する。孤児の幸せは、中国養父母の幸せであり、両国の友好増進にも直結する政治課題だ。7人の養母を始め多くの関係者と語らい、それを実感した訪中であった。(写真付き:ハルビン市郊外に住む養母・謝桂琴さんと写真に収まる訪中団メンバー)

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熱帯木材の国際会議に参加して/横浜市議・大滝正雄
●持続可能な熱帯林へ
 世界一の輸入国・日本 国際貢献にさらに努力を
<公明新聞 平成16.8.18>

 国際熱帯木材機関(ITTO)の第36回理事会が7月末、スイスのインターラーケンで開催され、招待を受けた私は、理事会とその後ジュネーブで開かれた国連貿易開発会議(UNCTAD)に参加した。
    *
 国際熱帯木材機関は、国連が1983年に創設。86年に本部が横浜に置かれた。わが国に本部事務所が存在する唯一の国際機関である。熱帯林の持続可能な開発とその供給源を管理・保全するため、協議や国際協力を促進している。熱帯木材の生産国と消費国の双方からなる加盟国は、EU(欧州連合)を含む58カ国。加盟国間で世界の熱帯林の75%、熱帯木材貿易の95%を占めている。
 本年5月、マノエル・ソブラル・フィルホ事務局長(ブラジル出身)から、私に招待状が届いた。現行の国際熱帯木材協定は、06年12月31日に有効期限を迎える。ITTO活動の継承を含む協定改訂論議が、次回理事会より開始されるので、ホストシティとして、その議論の行方を注視してほしい、との願いが込められていた。同様の招待が中田宏市長にも届いていたが、市長は公務の都合で出席できず、7月20日の開会式では、私が市長の英文メッセージを代読。「07年以降もITTOが横浜を本部とし、世界の環境改善に重要な役割を果たすよう」期待を述べた。
 4日間にわたる理事会の主要議題は、協定改訂交渉のための準備をメインに、「ITTO2000年目標」(国際貿易で取引されるすべての熱帯木材が2000年までに持続可能な経営が行なわれている森林から生産されていること)の制限要因の報告、劣化熱帯林等の再生・管理復旧のガイドライン報告、持続可能な森林経営の基準、など多様だ。初日から、森林の環境破壊や違法伐採問題で激しいやり取りも交わされ、会場に緊張が走る場面もみられた。「熱帯木材機関」より「熱帯森林機関」のほうが、理念に合致する、との提言を私は事前にソブラル事務局長から聞いていた。ジュネーブの会議では、その提案が米国から行われたと聞いている。
 こうしてITTOの将来を決する議論が始まったが、批准手続きに移るまでの約1年、加盟国間の交渉や議論の行方から目が離せない。世界には今、500を数える国際条約機関があるが、機関本部はわが国に一つしかないことを、重く受け止めたい。それに、わが国は世界第一位の熱帯木材輸入国である。ITTO本部を政府が誘致したのも、この事実に照らし、熱帯林保全と木材貿易に、国際貢献を果たそうとしたからにほかならない。  
 熱帯林は地球の生物種の半分が生息している自然の宝庫である。また巨大な水の循環作用の担い手でもあり、地球温暖化防止にも役立っている。その熱帯林が、毎年2000万念幣紂米本の本州の半分から3分の2)も消滅し続け、20世紀中に全熱帯林の半分が失われた、との報告もある。こうした中でITTOは、持続可能な森林経営への4つのガイドラインと、「経営水準や持続可能性の進展を評価する基準と指標」を設定するなど、画期的な業績をあげてきた。500以上もの対策プロジェクトが、いま世界の熱帯森林で機能している。わが国は、厳しい財政の中でも、加盟国中、最大の拠出金を負担し、これらの事業を支えてきた。
 21世紀は環境の世紀。世界第一位の熱帯木材輸入国であるわが国が、この分野での国際貢献を確かなものにするためにも、必要な施策推進と国民理解の拡大に、さらに努力を続けるべきだ。ピースメッセンジャー都市であり、「環境行動都市」をスローガンに据えた横浜市も、ITTOの本部存続に向け、積極的な役割を果たしたい。(ITTO理事会の全景写真つき)
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港ヨコハマに新たなシンボル/大滝正雄
<エコー会会誌『絵好』第47号>

<絵好ずいひつ>  「メリケン波止場」の名で親しまれてきた大さん橋埠頭がより巨大化し、その埠頭に新たなハマのシンボルが、2002年5月のワールドカップ・サッカー大会の直前に誕生します。「大さん橋国際客船ターミナル」がそれです。建物の長さは430m、幅70m、最高高さが15m。建物というより、帯状の丘が、港の中に現出するイメージを抱いてください。
 最初の大さん橋の建設は、1894年。横浜港に作られた最初の建造物でした。100年以上経っても港ヨコハマの象徴であり続けた「メリケン波止場」に、横浜市は敬愛の念を込めて、ちょうど100年後の1994年、公開による国際建築設計競技を決めました。世界中の英知を結集して、100年のちの人々にも愛される客船ターミナルの再整備をめざしたのです。
 横浜が行った国際コンペの特長は、単に建築デザインを競い合うだけではなく、当選者に設計・施工管理を委任することにありました。翌95年2月、コンペの審査会が厳正に行われました。応募登録数は3,200件、作品提出数は660作品で、海外からの応募も半数にのぼりました。わが国で行われた国際コンペ中最大で、ほとんど世界でも例を見ない規模。どれほど国際的にも注目され、関心が高かったかを、この数字が表しています。
 厳しいコンペを最優秀で勝ち取ったのが、若きイギリス人夫妻「アレハンドロ・ザエラ・ポロ&ファッシド・ムサヴィ」両氏の作品でした。
 審査の過程での二つの流れが、「審査講評」で明らかにされています。ひとつは、実現性に重点をおいて解決を図ろうとしたもの、もう一つは新しい可能性を求め、コンセプトを重視したもの。ポロ&ムサヴィ両氏の作品は、言うまでもなく後者の部類に属します。「横浜のコンペは素晴らしい成果を残した」。審査委員だった建築家のレム・コールハース氏は、こう叫んでいます。『ユニーク』と『冒険心』というキーポイントの基準を主張したのは、専門家以外の審査委員だったというのです。
 審査委員長を務めた建築家の芦原義信氏も同様に、「感動的な審査会だった」と述べ、最優秀作品を「国際的に次の時代を先導する建築」と絶賛しています。横浜には、常に新しいものにチャレンジする精神が息づいています。このプロジェクトもスタートから「横浜らしさ」が脈打っていたのです。自身も国際コンペの経験豊富な建築家・磯崎新氏は「(このような工法が)初めて横浜において実現することを理解して支援すれば、決して困難に逢うことはない」と、冒険的建築にあえて挑戦する横浜市の姿勢に、最大級のエールを送ったのでした。
 私はこの国際コンペの結果に、大きな喜びを感じましたが、その後の市議会での議論にも最大の関心を払いました。厳しい意見の多かった中で、船出には多少の困難が伴っても、このプロジェクトは必ず実現するという、楽観的な確信もありました。議会が承認したとおりに進捗すれば、客船ターミナルは、20世紀最後の世界的建造物として称えられるはずでした。ところが、コンペの当選者が決定してから本体工事に着手するまでに、5年近くの年月が経ち、新しい世紀を迎えてしまったのです。
 コンペ後の「実現性の検証」、それが大きな原因でした。基本設計だけで4年以上というのは、公共建築では異例のことです。この間、思わぬ事態も起きました。設計事務所を英国に構えるポロ夫妻と、検証作業を進める日本側チームの意思の疎通に、齟齬が生じていたことが解ったのです。「ポロ夫妻から自発的に設計・管理の仕事を辞退してもらうことは出来ないか」などという、信じられない会話さえ、当局の一部で飛び交っていたのです。
 1998年の1月、超党派による欧州視察の途中で、私は英国のポロ夫妻の事務所FOA(エフ・オー・アーキテクツリミテッド)を訪ねました。やはり思ったとおり、相互の信頼関係が大きく崩れていることを感じ取りました。帰国してから私は、国際コンペを実施し、その作品を完成させると要綱に謳った横浜市の責任を、議会の場でも厳しく問い質しました。高秀市長(当時)から、「大変意義のある事業なので、ぜひ実現させたい」との答弁と、当局から「実現性を確認できた」、との見解が公的に示されたのは、98年の10月のことです。
 この間にも、ポロ夫妻の作品は、世界中の建築専門誌などに紹介され、コンペを実施した横浜も、当然ながら話題の対象となっていました。美術界も同様です。ニューヨークの近代美術館(MoMa)での企画展や、ヴェニス・ビエンナーレにおける特別展示は、その代表的なものです。それだけに一歩間違うと、横浜市は国際的な批判を浴びるところまで来ていたといえます。
 コンペは、デザインに限るべきで、施工の可否や責任と関係ないやり方にしたほうが良かったなどという、クライアント側の「逃げ」や「いい訳」を、私は数多く聞きました。それだけ、当局側にも今まで経験したことのない課題や困難な壁が、幾重にも立ちはだかっていたのです。実現性の検証段階はもとより、基本設計・実施設計へと移る過程で、この建造物自体が生き物のように、「進化」していったことも承知しています。構造的な変化はもとより、建築途中でさえも施工方法や部材の運搬に変更を加え、対処しました。しかし、コンセプトは一貫してゆらぐことはありませんでした。
 建物内部は柱・梁が一本もない大空間です。その天井は「折り紙」で作った折鶴の羽のような鉄の「折板」が、連続して構成され、際立った美しさをみせています。これも進化していく過程で、必然のように生まれたものの一つといいます。
 また、ポロ氏と話していて興味深かったのは、「人と自然」への気配りに徹していることです。開港広場から大さん橋への道を進むと、小高い丘に登っていくように、緩やかにうねったスロープが、自然に人々をデッキに導きます。屋上デッキには芝も植えられ、全体が公園であり憩いの場として作られました。ターミナルはすべてバリアフリー、階段は一切ありません。
 さらにこの建物は、隣の山下公園からの眺望や見通しを妨げない高さに抑え、あくまでも客船を主役に、船を引き立てる景観づくりに配慮されています。こうした他方から観る人への気配りが、自己主張ばかりの従来のコミュニティー施設づくりにかけていた点を、実感させてもくれます。
 大きくても、暖かさややさしさを感じさせる工夫は、他にもあります。スロープやデッキはすべて木材。木材は、イペというブラジル産の硬質な熱帯木材が使用されています。
     *
 横浜市は1986年に国際熱帯木材機関(ITTO)の本部を誘致しました。事務所はみなとみらいの国際会議センターにあります。木材消費国と生産国との間の調整を行いつつ、熱帯林の保全や経営を行っている国際機関です。
    *
 ウッドデッキでの感動は、熱帯木材を通して、「地球的規模の環境」を考える機会を、人々に与えてくれるかもしれません。私は、ITTOのフィルホ事務局長と、ポロ夫妻の会合をセットし、意気投合した両氏の会話にも立ち会いました。この建物内に、国際貢献を果たす横浜市の事業や、横浜に事務所をおく国際機関の仕事をPRする場は、後で必ず確保されることでしょう。これも無限の可能性をもつ施設事業のほんの一つの例に過ぎません。
 ターミナルの先端部分には「多目的ホール」も備えられています。抜群の景観を誇るホールで、どんな催事が開かれるのか今から楽しみです。本来のターミナル機能のほかに、施設全体をどう使いこなすかは、ハマっ子の知恵と心意気にかかっているといえるでしょう。
 ポロ&ムサヴィ夫妻の仕事は、2002年の9月から11月まで開催される、ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展で、再び紹介されることが決まりました。今回は、英国館の全館を使ってポロ夫妻の建築のみを展示。横浜の完成したプロジェクトが大きな話題と衝撃を、鑑賞者に与えることと思われます。
 それにしても、これほど国際的な関心を呼んだ建築物が、横浜という話題提供には事欠かない都市で実現するというのに、どうして関心が薄いのか不思議です。でも、考えてみれば、パリのポンピドー・センターも、シドニーのオペラハウスも同じ運命をたどったのです。
 「メリケン波止場」から百年、これから百年後のハマつ子は、このターミナルにどんな愛称をつけ、どんな使い方をしているのでしょうか。想像するだけで未来への夢が大きく膨らんできます。 (横浜市会議員)


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