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マチュピチュ遺跡とアマゾナス劇場での感慨
<エコー会機関誌『絵好』第60号>

<絵好ずいひつ>  先号に続き今回は南米ペルーとブラジル訪問について書きます。ご存知の方も多いと思いますが、国連の条約に基づく本部機関がわが国には唯一、横浜市に設置されています。「国際熱帯木材機関(ITTO)」がそれで、創設は1983年。
 横浜市は86年に誘致しました。同機関は、熱帯林資源の保護と、持続可能な管理・活用・木材貿易の促進を図る、政府間組織です。私たちの視察・会議等をアテンドしてくれたのは、このITTO本部です。熱帯林と多様な生物種保護に関するITTOプロジェクトは、主として南米と東南アジアに集中しています。そうしたことから、その最も特徴的な事業が行われているペルーとブラジルで、私たちはプレゼンテーションに参加したり、政府関係者、大学等学術機関の訪問・会議を重ねたのでした。
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 ◆空中都市での自然の演出
 リマ市にあるペルー農業省、JICA(国際協力機構)ペルー事務所等での質疑を終え、マチュピチュ国立公園に向かったのは、ペルー滞在二日目。マチュピチュは、遺跡(文化)と自然の両方が指定された、数少ない複合世界遺産です。
 クスコのサンペドロ駅からマチュピチュ村のアグアス・カリエンテス駅までは列車で約4時間。そこからマチュピチュ遺跡までは、標高差が400超。つづら折りの山道をバスでゆっくりのぼります。早朝の出発時から、あいにく篠つく雨でした。終着駅で列車を降りたときは、土砂降りの雨。ポンチョ風のマントを買った私たちは、誰も口にこそしませんでしたが、雨と霧とで「見られない遺跡」を覚悟していました。
 マチュピチュは15世紀半ばから16世紀前半に造られたといわれていますが、最も古い部分は、2000年前にも遡るという調査があって、最近は少なくともインカ以前から存在していた、との説がとられているようです。遺跡の標高は約2400m。総面積5訴進叩インカ帝国の諸都市がスペイン侵略により破壊され尽くしたのに、マチュピチュがほぼ無傷で残っているのは、そこが空からしか存在が確認できない、まさに「空中都市」であったから、といわれています。
 昼前に、急峻な山道を登っていた私たちは、マチュピチュの全容が見下ろせる場所へ、這うようにたどり着きました。その視界が開けたと同時に、霧に包まれていた遺跡たちが、ゆっくりとその表情を表し始めたのです。私たちを待っていてくれたかのような、自然の見事な演出に、鳥肌がたつような感動を覚えました。この遺跡を発見したのは米国人ハイラム・ビンガム。1911年といいますから、インカ滅亡後400年のことです。彼ら一行が体験した感動は、どのようなものだったのか想像もつきません。もっとも、一帯はジャングルと廃墟。全景を見たのはずっと後からのことだったと思われますが。
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 ◆人々の幸せと平和を祈る山中の舞台 
 巨石を含めて、この遺跡群に使われた石材は、全てこの山中から切り出されたもので、遺跡の背後には石切り場もそのまま残っています。太陽月・星々などの、天体観測が行なわれたとされる施設、共鳴の原理を祭祀に活かした部屋、学校・神殿・農業研究所など、生々しい息づかいが今も感じられる建造物と、その石組み技術の確かさに、圧倒され驚嘆しない人はいないでしょう。
 インカ族は自然崇拝の民族だったといわれています。マチュピチュは、自然に畏敬を払った人々の祈りの街。私はそう確信しました。自然と人間が一体となり人々の幸せと平和を願い、自らの生活もそう徹しようとした人たちの、祈りの街だったのだと。
 ところで、マチュピチュには、発掘品等を展示している施設はどこにもありません。先述のビンガムが米国に持ち帰ったからです。いま、エール大学にそれはあります。研究で多くのことがわかっていますが、中でも私が感動を覚えたのは、発掘品の中に武器が存在していなかったという事を聞いた時です。人骨からも戦いの形跡や、重労働を強いられた跡さえないとのこと。街が廃墟になる直前まで、ここの人々は豊かな自然の中で、平和に暮らしていた! 研究がさらに進めば、現代の、いや未来の人間にとって、この遺跡群は、とてつもない大きな教訓をもたらす可能性がある。私は今、いっそう興味をそそられています。
 発掘品の展示に関して、蛇足ですがもう少し述べてみたいと思います。遺跡の発見・発掘後に、その現地に展示施設が作られる例は、少ないように思われます。まして現地の人々の手によって施設建設や管理・運営まで行なわれているとなると、それこそ稀有。でも、あるのです。しかも日本人学者がその道を開いた例として。アンデス文明の遺跡クントゥル・ワシがそれです。
 遺跡を発見し、博物館建設にも尽力した学者は、東京大学教授の大貫良夫先生。先生は発掘品などを日本において大規模な巡回展で紹介し、会場では寄付も募りました。建設財源をそこから生み出したのです。それ以前に、そもそも国の宝である発掘品を、外国に持ち出すこと自体に、相当の抵抗があったはずですが、先生の熱意と、信頼関係がそれを克服したといいます。建設はクントゥル・ワシ村あげて取り組まれ、館長には大貫氏自身が就任。村は一挙に観光地としても活気づいて、大勢の人々が訪れるようになりました。この例は、国連から「クントゥル・ワシ・ケース」として、高く評価されています。
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 ITTOのプレゼンテーションは、リマでもブラジリアにおいても、とても有益なものでした。地球的規模の環境問題に挑み、それを克服することは、そのまま平和創出や青少年の教育問題など、地球全体を覆う今日的課題の解決と、軌を一にするものであることを、心から納得できたからです。
 例えば「エクアドル・ペルー間のコンドル山脈に於けるプロジェクト」は、両国の和平成立後に、ITTOが核となり環境保護・生態保全活動をしながら、平和維持活動に直結している例ですし、「アマゾンの先住民コミュニティによる森林再生」は、先住民青少年に対する森林文化の啓発・教育が、持続可能な森林再生と経営の成功を導いた事例です。私たちにとって光栄であり、大変嬉しかったこともありました。ブラジル大学で「アマゾン植物相非材木五百種のインターネット・サイト発表式典」が開催されましたが、それは、わざわざ私たちの訪伯に合わせて企画し、副学長出席の元で、その意義を留めてくださったことでした。
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 ◆三大劇場と謳われたその後の運命
 アマゾン経済の中心地・マナウス。ゴム景気により「世界中の金が集まった」といわれるほど、栄えた街です。東南アジアのゴム栽培が世界一の座を獲得するまでの約50年間でした。その繁栄振りを街中の建築群や文化・芸術施設に見ることが出来ます。その代表が「アマゾナス劇場」です。世界三大オペラ・ハウスは、パリのスカラ座、ミラノのスカラ座、そしてマナウスのアマゾナス劇場。それを、私はここマナウスで初めて知りました。巨万の富を築いた実業家たちが、パリに劣らないものをと、なんと劇場をパリで建築し、その建物を丁寧に解体してマナウスに運び、再び組立て直して完成させたという、超豪華なオペラ劇場です。
 杮落としは1896年。客席は650席で、オーケストラピットの昇降は、水圧方式でした。平均賃金が30クルゼーロの時代に、フランク・シナトラ公演のチケットは1000クルゼーロだったとか、ともかくエピソードもふんだん。その絢爛豪華な劇場も、経済の大波には勝てず、酷いほどの衰退にさらされました。「ほんの50年ほど前はゴムタイヤの倉庫だったよ」。案内してくれたのは、アマゾナス連邦総合大学の錦広司氏。氏は日本人移民の協力を得て、大学生らと修復・再活用への運動を起こした、その人でした。大勢の人達の復興の願いがかない、現在はマナウス市の管理の下、様々なイベントや演奏会などに使われています。年末には、日本人会でブラジル版「紅白歌合戦」も開かれているとのこと。
 日本の真裏にある他国の歴史的建造物が、たくさんの日本人が関わることによって保存・再活用されていることに、私は胸を熱くしたのでした。(大滝市議自身が撮影した、マチュピチュ遺跡とアマゾナス劇場の写真付き)
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